みんなの活動:これまでの活動報告

東日本大震災被災地、福島県を視察しました

福島の被災地現状を知り、これからを考える取り組み報告

2018.03.27

コープふくしまの宍戸常務(右)、宮澤理事(左)



放射能測定器、地域によって値は変化した



除染された土などの仮置き場



請戸小学校跡地、周りは一面の草地となっていた



金属の柵が各戸敷地入り口に設定されていた地域も



道路沿いの線量計



体育館などの避難所での生活を再現した展示(いわき・ら・ら ミュウ)



除染や瓦礫を入れるフレコン。右が菅野 原発災害情報センター長



原発事故をに絶望し自死された酪農家のベニヤに書いた遺書


「コープふくしま」に全面的ご協力をいただき、東日本大震災から7年が経過した東京電力福島第1・第2原子力発電所(以下「原発」)周辺の地域を、東都生協の組合員22人が視察しました。

1日目(3月15日)
朝8時池袋をバスで出発後、12時にコープふくしまの方木田店で、常務理事の宍戸義広さん、組合員理事の宮澤恵美子さんと落ち合いました。

車内で、宍戸常務より、コープふくしまの取り組み紹介などがあり、線量測定器が2台、組合員に渡されました。

コープふくしまでは震災後より毎年「普段の組合員の食事の放射線量を測る活動」をしており、年1回100人の組合員に、実際に食べている食事2日分を提供してもらい、それを日本生協連・分析センターで計測して結果を公開しているとのことでした。これは、震災直後から行い、今年で6回目となるそうです。

宍戸常務の説明を聞きながら飯舘村を視察しました。沿道には、除染された土やがれきを入れた容器をシートで覆った仮置き場が各所にありました。

飯舘村は、福島第1原発よりある程度離れた地域で、後になり放射線量が高いと分かり避難地域となった地域。

移動中の車中で見た飯舘村の元酪農家の奥さんの証言DVDの中では「当初避難民に、野菜やしいたけ、牛乳、食料などを提供した。知らずに汚染量の高い食料を提供することとなり、住民はその後批難もされ、後悔もしている。これは『天災』ではなく『核災』である」と話していました。参加者は見ていてやるせない気持ちに覆われました。

飯舘村に新しくできた道の駅「までい(=福島弁で丁寧の意味)」は他の道の駅に比べ、地元農産物が極端に少しか販売されていませんでした。栽培している人や面積が少ないためとのことでした。

その後、浪江町駅⇒浪江町請戸(うけど)地区周辺⇒双葉町⇒富岡町駅⇒富岡町子安橋を視察。

JR常磐線の「浪江町駅」~いわき方面の「富岡駅」間のみ未だに不通。代行バスが走っていました。

浪江町請戸地区は、津波で大被害を受けた地区で、小学校の校舎が残っていましたが、1階は全て破壊されたとのことでした。参加者に学校裏手に祖父母の家があった方がいて「震災前は周辺には人家や農地がたくさんあったが全て無くなってしまった」と話していました。

震災当時原発事故のため、救援隊が数日入ら、助かる命も助からなかった可能性もあったようです。

双葉町、大熊町はほぼ全域が帰還困難地区、道路沿いの各敷地の入り口に金属の柵が設置されて入れない人家が並ぶ地域もありました。

富岡町子安橋周辺で下車(これより立ち入り禁止地区の手前)し、東京電力・福島第2原発を遠くに見ながら原発の説明を聞きました。大きな被害をもたらした原発、更に廃炉の見通しも十分できたていない原発、政府や電力会社により再稼働が推し進められている現状に大いなる疑問を感じずにはいられません。

2日目(3月16日)

車中で理事の宮澤さんから、いわき市の震災時の様子や、当時体験したことなどについてお話がありました。

道路に多くの救援の自衛隊車両が行き来していたこと、ガソリンがなく半日以上車中で待機したこと。また、震災前夜たまたま抜かないでおいた風呂の水が、トイレの水などに役立ったが、その後逆に入浴後の水を抜かないと地震を思い出すようになり、それがトラウマになっていると語ります。

塩屋崎灯台で有名な薄磯地区災害地を訪問。海辺にも関わらず高台で津波の被害を唯一逃れた「山六観光(お土産屋さん)代表の鈴木一好さんが、被災後4日間にわたり撮り続けた写真を基に、当時の様子や、その後の復興の様子などについてお話しいただきました。

「この地域は昔からの言い伝えで『大きな津波は来ない』といわれており、逃げる人がいなかった。津波後は陸の孤島となり、3日間救援が来なかった。4日目に自衛隊が来たが、福島第1原発の水蒸気爆発が起き、すぐ撤退してしまった。200数十世帯中10数世帯しか残らなかった。生き残った者の責務として、多くのご遺体の確認をしたが、泥まみれで更に、渦巻き状の津波に遭っため、男女の区別すらつかなかった」
「震災後、原発のために復興が遅れた。住民間でも補償などで津波被災者と原発避難者などの対立があり、こういったところにも傷跡が残る」と鈴木さんは語ります。

「いわき・ら・ら・ミュウ(お土産、飲食施設)」ここも、震災当時被災した施設。2階では、震災資料展示や映像の公開などが行われていました。

原発災害情報センター(白河市)視察。センター代表の菅野さんは「センターの木造の建物は150年間耐えることを念頭に建てた。150年とは、セシウム137が10分の1になるに要する期間だ。除染土などは1トン入りのフレコンバッグ(フレキシブルコンテナバッグ)に入れられ、各地に仮置きされているが、フレコンバッグの耐久年数は3年ほど。自然破損や、今後移動時に破損する懸念がある」と説明していました。

今回の視察は、福島第1原発事故が被災時救援を妨げ、その後の復興を遅らせたことや、住民同士の分断の一因となっているなど、同じ被災地の岩手県や,宮城県などと比べても大きな負の遺産となっていることを学ぶ機会となりました。

■参加者の感想(抜粋)
  • コープふくしまの方は、震災に対する取り組みを情熱を持って行っている。周りの方に伝えたい
  • 酪農家の奥さんの証言DVDを観て、知らずに避難者に牛乳や野菜を提供してしまったことを知りショックでした。周りの方に伝えることが参加した者としても任務と思う
  • 原発の脅威を現地を見て更に感じた。私たちの原発を無くす行動が大切だ
  • 岩手、宮城に比べても復興が遅れている。原発事故の陰が地域の分断につながっている
  • 今でも原発のことを政府や、東京電力は国民に知らせていないと感じた